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年代  活動内容(政治活動・その他)

 出版本・新聞、雑誌記事など
 明治39年
(1906年)
宇都宮太郎(陸軍大将)の長男として誕生
大正10年
(1921年)
東京陸軍幼年学校に入学
大正14年
(1925年)
旧制水戸高等学校に入学
昭和3年
(1928年)
京都帝国大学経済学部に入学
河上肇に師事、社会科学研究会に参加。リーダーを務めるが、不敬罪で検挙され退学。
昭和4年治安維持法違反で投獄。のち株相場で財をなす。
 昭和27年
(1952年)
 第25回総選挙、自由党、初当選(東京2区「品川区・大田区・伊豆七島」定数3)

『宇都宮徳馬正論集』出版
昭和28年
(1953年)
 第26回総選挙、2回目当選。自由党品川支部長に選任。
離島振興法(議員立法)の制定の提案者となり尽力、同法は現在も継続。
昭和29年
(1954年)
ストックホルム世界平和集会に参加(西村直巳団長)。
帰路。フランス・オランダ・西独・ノルウェー・イギリス・スウェーデン・フィンランド・ソ連・ユーゴ・イタリア各国を歴訪、政情視察。

『モスクワ見たまま』(週刊読売8・8号)
『自由が生きている赤い国−ユーゴスラヴィア便り−』(週刊読売9・5号)
『世界の民衆の声を集めて−ストックホルム世界平和集会−』(中央公論9月号)
『イタリア便り−共産主義の温床の地を見る−』(政策10月号)
昭和30年
(1955年)
第27回総選挙、日本民主党・3回目当選。日本民主党品川支部長に再選。
日中議連常任理事に就任。行政管理庁政務次官に就任。

『保守合同の流れに抗す』(政策8月号)
党長期政権を予見、議会民主政治の機能麻痺を招くと強く反対。
昭和31年
(1956年)
鳩山首相を扶(たす)け、日ソ国交回復に積極的に尽力。

『日ソ国交回復を急げ』(再建8月号)
『日ソ国交回復の意義』(再建12月号)
昭和32年
(1957年)
自民党政調会副会長に就任。
衆院派遣、政情視察のため、訪米。ケネディ上院議員らと安保極東情勢について会談。
次いで、ソ連・アフガニスタン・イラン・トルコの諸国を歴訪。
衆院懲罰委員長に就任。

『東中欧に於ける政治形態の問題』(政策3月号)
『放送座談会・外から見た日本(宇都宮徳馬・中曽根康弘)』(文化放送)
昭和33年
(1958年)
第28回総選挙、4回目当選。
自民党副幹事長、党外交調査会副幹事長に夫々就任。自民党品川支部長に再選。
フィリピン訪問、賠償汚職調査。ガルシア大統領と会談。

『要望される日本外交の飛躍、超党派の外交の条件』(外交時報9月号)
『比島の対日感情好転の三つの理由』(再建11月号)
昭和34年
(1959年)
石橋前首相に随行し訪中。
日中復興について周恩来総理と初の首脳会談。
次いでパリからアルジェリア、キューバ、アメリカを訪問。

『安保条約改定は急ぐべきではない、性急な改定は日本に不利』(中央公論6月号)
『日中問題と安保条約改正』(中央公論11月号)
『日中修交の新しい踏台、北京から帰って』(外交時報11月号)
 
昭和35年
(1960年)
日中国交改善研究会発足(宇都宮徳馬・平野三郎・井出一太郎・久野忠治・桜内義雄ら中心)
第29回総選挙、5回目当選。

『平和共存と日本外交』出版
『石橋除名論に応えて』(日本週報)
『対談・岸内閣から池田内閣へ(宇都宮徳馬・千葉茂夫)』(再建9月号)
昭和36年
(1961年)
日本北アフリカ協会理事長就任(1981年日本アルジェリア協会に名称変更、会長就任)
中国外交学会から招聘受け訪中。宇都宮徳馬団長、長谷川峻、渋谷直蔵、平野三郎(前)代議士ら随行
周恩来総理と日中米三国の問題で長時間会談

『新しき中国観のために、積極的に米中関係の打開を図れ』(文藝春秋)
『周総理、宇都宮訪中団との会談録』
『中国に招かれて』(再建8月号)
『日中復交と極東の平和』(世界9月号)
昭和37年
(1962年)
中国の招聘を受け、遼子夫人を伴い訪中。周恩来総理、陳毅外相らと会談。次いで中国各地を視察。

『日韓問題について質問す』(月間時事2月号)
『日本利益と中国の利益』(中央公論
『対日請求権問題』(外交時報)
昭和38年
(1963年)
アルジェリア・キューバ訪問。アルジェリア独立式典に参列、
チュニジアを経てキューバ・カストロ首相と通商問題について懇談。
米国・国務省に招かれて中国問題について極東担当・ヒルズマン国務次官補と会談。
第30回総選挙、6回目当選。

『国際政治の多元化と日中外交』(世界)
『日本外交の新展開のためにアルジェリアからキューバ』(エコノミスト)
『座談会・我々は中国をこのように見る(宇都宮徳馬・松本俊一・久住忠男)』(現代の眼)
昭和39年
(1964年)
北朝鮮平壌で開催のアジア経済セミナーに日本代表として参加。帰途、北京で中国要人と会談。

『七億人の隣人』出版
『アジア経済セミナーに出席して、北朝鮮の驚異的復興を見る』(再建)
『座談会・これからの自主外交(森恭三・宇都宮徳馬・衛藤審吉・林三郎)』(現代の眼)
『対談・日本は中国問題にどう対処すべきか(宇都宮徳馬・山本勝市)』(再建)
『座談会・日中問題の現状と将来(宇都宮徳馬・岡崎嘉平太・内田健三)』(政策)
昭和40年
(1965年)
自民党アジアアフリカ問題研究会(AA研)を創設。代表世話人。
党の外交政策に活をいれ、中国の国連加盟を推進。
中国・北ベトナム・カンボジアを訪問。
陳毅中国外相、ファン・バンドン北ベトナム首相、
カントール・カンボジア首相と会談(ベトナム問題について)。
インドネシア・中国・北朝鮮訪問。AA研団長としてスカルノ・インドネシア大統領と会談。
北朝鮮では日本商品展示会として金日成主席と会談。中国は陳毅外相、外交学会首脳と会談。

『新安保条約と日本外交』(中央公論)
『講演・中国問題と私の立場』(朝日新聞社)
『日韓問題と日本のアジア外交』(外交時報)
『講演・米国のベトナム政策と極東の安定(ウェイン・L・モース、宇都宮徳馬・川崎秀二)』(AA研)
 『講演・現代の民族主義と国際関係』(早大文化祭)
昭和41年
(1966年)
『アジアの問題と私の立場』出版
『対談・米中対決と日本の進路(宇都宮徳馬・小山内宏)』(日本)
『座談会・時局と日本(宇都宮徳馬、早川祟・戸川猪佐武・長谷川峻・田中竜夫)』(民族と政治)
昭和42年
(1967年)
第31回総選挙、7回目当選。
日本国際貿易促進協会副総裁に就任(総裁・石橋湛山)。北京日本工業展覧会会長に就任。
中国訪問。陳毅外相、外交学会首脳と文化大革命化の外交問題について会談。次いでハルビン、西安、延安を視察。フランスをはじめ欧州・アルジェリア・モロッコ・チュニジア・イラクを訪問。政治経済状況を視察。

『文化大革命と毛沢東、七回目の訪中から帰って』(世界)
昭和43年
(1968年)
自民党新政策懇話会設立に尽力(代表世話人・赤城宗徳、佐藤右より体制に反発し、党の体質改善をめざし、粛党推進協議会を発展解消した。)同会に日米議員懇話会小委員会を設けた。
米国。党新政策懇話会を代表し、中国問題を話し合う日米議員会議準備のため渡米。マンスフィールド、マッカシー上院議員ら多くの議員と会談し翌69年1月、日米銀懇話会開催を決めた。ニューヨークの米中関係全国委員会で講演し、アメリカのベトナム政策と中国政策を批判し、アメリカの良識に訴えた。

『崩れゆく「ドル、核の傘」と日本』(世界)
『転換する米アジア政策と日本』(世界)
昭和44年
(1969年)
米国、中国政策日米議員懇話会開催(サンタ・バーバラ会議)藤山愛一郎団長他九名出席。会議の発案推進役の宇都宮代議士は日本側スポークスマンの役割を果たし会議を成功に導く。帰路ハワイ大学で講演。
北京日本工業展覧会会長として訪中。開幕後、周恩来総理と会談。開幕式は参加者の佐藤内閣打倒デモとなる(欠席)。
日本北アフリカ境界性財界施設団長としてアルジェリア・モロッコ・チュニジア・フランス諸国を訪問。ブーメディエン・アルジェリア大統領はじめ、各国の首脳と通商問題について会談。
第32回総選挙で8回目当選。

『サンタ・バーバラ会議、日米議員団ポジションペーパー』(世界)
『サンタ・バーバラ会議から帰って「日本の政治の腐敗を衝く」』(世界)
『日中戦争の同義的決済は民族の急務“傲慢卑小な精神構造を廃棄しよう”』(朝日ジャーナル)
昭和45年
(1970年)
「日中国交回復促進議員連盟」結成に主導的に尽力(日中貿易促進議員連盟を発展解消)。会長に藤山愛一郎。

『日本外交の盲点』(世界)
『対談・下士官に政治は任せられぬ(司馬遼太郎・宇都宮徳馬)』(文藝春秋)
昭和48年
(1971年)
日中議連訪中団(団長藤山愛一郎)に参加、周恩来首相らと会談。日中国交回復の政府間交渉の道を開く。訪中団を代表し中日友好協会との共同声明に署名(中国側署名者、除明氏)。
超党派の日朝議員連盟(仮称)結成に尽力。

『政府の決断を求める“ごまかしを排し日中国交回復に直進せよ”』(毎日新聞)
『ニクソン訪中と日本の中国外交』(自由新報)
『日中講和は急がねばならない』(世界)
昭和47年
(1972年)
「屈原」の上演実行委員会発足。
中国、自民当方中団(団長小坂善太郎)に参加。周恩来首相と会談、田中首相訪中問題を協議。
第33回総選挙、9回目当選。衆議院決算委員長に就任。

『転換する米アジア政策と日本』出版
『沖縄条約を知る権利、私は言いたい外交機密とは』(毎日新聞)
昭和48年
(1973年)
日中友好議員連盟準備会発足に世話人として尽力。
来日の廖承志中日友好協会会長を中央林間自宅に迎え観桜会を開く。
金大中拉致事件が発生。直ちに金大中氏の救出と原状回復・日本の主権回復に政治生命をかけ活動を展開。ソウルの自宅に軟禁中の金大中氏に電話し、無事を確認。

『座談会・金大中事件を考える(宇都宮徳馬・佐藤勝巳・寺沢一・松本清張)』(朝日新聞)
『座談会・難局面の日韓関係(宇都宮徳馬・田英夫・関寛治)』
『座談会・あいまいな政治処理(寺沢一・藤島宇内・宇都宮徳馬)』(毎日新聞)
『座談会・禍根を残す金大中事件(宇都宮徳馬・伊関祐二郎・関寛治・青地晨)』(読売新聞)
昭和49年
(1974年)
政府の対韓政策(金大中事件の処理)に抗議、議員辞職決意。
自民党AA研代表として訪米。韓国問題、金大中事件をめぐる日米国際会議開催を準備(9月開催予定のワシントン会議、朴大統領狙撃事件のため中止)。
北朝鮮。自民党AA件代表世話人として元山から訪朝、金日成主席と会談。

『座談会・74年の政治を占う(宇都宮徳馬・矢野絢也・田英夫・山本正雄)』(公研)
『危機の根源を見つめる“金大中・石油・アジア外交”』(世界)
『自民党の極右体質を排す』(中央公論)
『座談会・国民無視して調印された日韓大陸棚協定(宇都宮徳馬・内田健三・石見隆夫)』(国会ジャーナル)
『金日成主席と会談要録』(毎日新聞)
『日本は新しい痣をつくるな』出版
昭和50年
(1975年)
アルジェリア・ブーメディエン革命評議会議長と懇談。次いでレバノン訪問。
三木自民党総裁より、都知事出馬要請をうけ、辞退。
中国、三木首相の要請で「日台空路」誤解を解くため訪中。次いで北朝鮮。三木首相の特使として、隠密にに訪朝、金日成主席と会談(貿易未決済解決、三木首相の日米会談の下準備「米朝対話協力」)。平壌滞在のカンボジア元首、シアヌーク殿下を激励。

『金日成・宇都宮徳馬会談の記録』(読売新聞)
『座談会・戦後思想の潮流“体制の思想、保守政治の思想”(宇都宮徳馬・橋川文三・石田雄・高畠通敏)』(週刊エコノミスト)
『座談会・三木外交とアジア情勢(田英夫・法眼晋作・宇都宮徳馬)』(読売新聞)
昭和51年
(1976年)
自民党を離党、議員を辞職。第34回総選挙、10回目当選。
衆院無党派クラブ結成し代表となる。

『座談会・このままではみんなが沈む“屍臭を放つ議会政治”(上田哲・黒柳明・宇都宮徳馬・佐藤文正)』(朝日ジャーナル)
『対談・濃霧のなかの「保守」と「革新」(岩井章・宇都宮徳馬)』(世界)
『言論の自由と権力政治』(世界)
『自民二五年政権への訣別』(中央公論)
昭和52年
(1977年)
カーター新政権の朝鮮政策、日韓癒着問題調査のため訪米。ライシャワー元駐日大使、レナード元国務省朝鮮部長、スパークスマン上院外交委員長、下院のフレザーらと会談。今夏開催予定の朝鮮問題に関する日米会議準備。
山村振興調査会(自主再建)会長に就任。
日中友好協会東京都本部会長に就任。
全朝鮮問題懇話会発足(宇都宮、麻生議員のよびかけ)
朝鮮問題に関する日米議員会議開催、団長として訪米。
衆議院永年在職(25年)議員表彰を受ける。

『座談会・日韓疑惑を糾す(青地晨・宇都宮徳馬・中川信夫)』(朝日ジャーナル)
『日韓疑惑、矢治氏に再反論する』(毎日新聞)
『カーター外交と日本“政治転換の好機”』(世界)
『朝鮮問題日米会議から帰って“米側の北朝鮮論議の突破口”』(朝日ジャーナル)
『緊張緩和と朝鮮の統一問題“南北相互軍縮は緊要”』(世界)
『われら無党派』出版
昭和53年
(1978年)
 金大中氏、逮捕以来1年10ヶ月ぶりに釈放。
中日友好協会の招聘を受け、宇都宮徳馬・鳩山邦夫両夫妻訪中。北京、昆明、成都を訪問。
「伊豆諸島東京都移管百年記念」感謝状授与。
中国。東京都区市議連友好の翼訪中団の名誉会長として訪中。
日中友好協会全国本部副会長に就任。
中国。日中平和友好条約批准記念訪中団団長として訪中。近衛夫妻、皇室関係者の初の北京訪問を北京空港に出迎えた。
金大中氏、朴大統領の特赦で釈放、喜びの電話対談。

『アジアに立つ』出版
『危険な軍拡競争』(週刊エコノミスト)
『座談会・兜町時代の思い出を語る(宇都宮徳馬・木左森吉太郎)』(再建)
『日本人にとっての戦争と平和』(自由思想)
昭和54年
(1979年)
中東。PLOアラファト議長、カドウミ政治局長とベイルートで会談。日本のPLO政策の改善を主張。
日本パレスチナ友好議員連盟発足、会長に就任。
勲一等瑞宝章受章。

『パレスチナ問題に深い理解を』(世界)
『軍縮を阻む巨大な影“産軍複合体の奇怪な提携”』(朝日ジャーナル)
『対談・世界の火薬庫、中東と朝鮮半島(宇都宮徳馬・俵孝太郎)』(創)
『好漢自愛せよ、宇都宮徳馬のこと。石川達三』(サンケイ新聞)
昭和55年
(1980年)
第12回参議院議員選挙、東京地方区、無所属、当選(新自由クラブ・社民連推薦)。
新政クラブ結成。代表に就任。
「宇都宮軍縮研究室」を創設。月刊誌『軍縮問題資料』創刊。
日中友好協会全国本部会長に就任。

『座談会・歴代総理とその時代(宇都宮徳馬・いいだもも・神島二郎・内田健三)』(現代の眼)
『私の軍備縮小論』(新自由クラブ)
『緊急討論・金大中に自由を(宇都宮徳馬・田英夫・河野洋平)』(毎日新聞)
『対談・軍備亡国暴兵損民(宇都宮徳馬・遠藤三郎)』(世界)
『対談・防衛問題、主張、反論(宇都宮徳馬・海原治)』(読売新聞)
昭和56年
(1981年)
日中友好協会全国本部訪中団団長として訪中。鮪]・燭蕕伐饕漫7浬面簑蠅念娶・魎后」
国際軍縮促進議員連盟発足、顧問に就任。
中国・北京、青島、斉南を視察。北京で李先念副主席と会談。
北朝鮮、金日成主席・金永南外相と会談。朝鮮半島の緊張緩和、北朝鮮との善隣友好について。

『21世紀の主役たちに』(毎日新聞)
『対談・世界に広げよ平和の輪“軍縮議連の結成へ”(宇都宮徳馬・勝間田清一)』(再建)
『参院本会議における質問演説』(再建)
『明日への選択、軍縮で平和か軍拡で破滅か(五味川純平・宇都宮徳馬・瀬戸内晴美)』(毎日新聞)
『言論に望む』(世界)
『ノーモア・ヒロシマは民族のモラル』(朝日新聞)
『鎖を解き放て、金大中氏に自由を(宇都宮徳馬・田英夫・河野洋平、緊急討論)』(毎日新聞)
『忘れえぬ八月一五日、日中友好は最大の安全保障』(読売新聞)
『地球全体がキナくさい、軍備競争のガスが充満している』(日刊ゲンダイ)
『何が朝鮮情勢を緊張させているか』(世界)
昭和57年
(1982年)
悠悠会発足(反骨の言論人桐生悠々を亀鑑とし、各紙一線の記者の集まり)。顧問に就任。
米国、軍縮平和行脚。ワシントン、ボストン、ニューヨークを訪ね、上下議員、学者らと平和軍縮を懇談。ケンブリッジ市議会で演説。
「反核軍縮・五・一三東京行動」に参加演説(草の根40万の大集会)
日中合弁映画「未完の対局」訪中団名誉顧問として訪中。趙首相と会談。
軍縮教育シンポ(広島)に出席し、ヒロシマ・ナガサキの被爆体験を子供たちに伝えようと訴えた。
日中友好協会訪中団団長として訪中。鮪]・薪涕槎箘兌臟い伐饕漫」

『対談・軍縮を考える(宇都宮徳馬・徳間康快)』(東京タイムス)
『対談・朝鮮半島緊張緩和への道(宇都宮徳馬・徳間康快)』(東京タイムス)
『静かな朝はまだ来ない(松岡英夫・李依永・宇都宮徳馬)』(毎日新聞)
『対談・核に「西」も「東」もない(久野収・宇都宮徳馬)』(現代の眼)
『アメリカの良識は発言する、宇都宮徳馬・軍縮行脚の記憶』(朝日ジャーナル)
『ヒロシマ・ナガサキの「情報」を世界に伝えよう』(東京新聞)
『正直に歴史を伝えよう』(読売新聞)
『公開ドキュメントあなたは生き残れるか(宇都宮徳馬・小田実・筑紫哲也ほか出演)』(テレビ朝日)
昭和58年
(1983年)
中国“人民中国”創刊30年記念式典に出席。
中国。廖承志中日友好協会会長の追悼式に日中友好協会会長として参列弔問。
日中友好会議代表団総団長として訪中。北京、呼和浩特訪問。

『歴史の教訓、同僚議員に訴える』(世界)
『戦争は天災ではない』(毎日新聞)
『戦争を知らない子供たちへ(宇都宮徳馬・淡谷のり子・入江タカ子出演。國弘正雄総司会)』(日本テレビ。ミノファーゲン製薬提供)
昭和59年
(1984年)
米国、軍縮平和行脚。ワシントン、アトランタ、ニューヨークを訪問。上下議員、学者、有識者らと軍縮・平和問題で懇談。
「核軍縮を求める二十二人委員会」発足。座長に就任。
「宋慶齢日本基金会」発足。会長に就任。
中国、「’84」日中青年友好交流代表団顧問として訪中。5000人大集会(宇都宮徳馬顧問・胡総書記と夫々挨拶乾杯)。国慶節パレード(鮪V鎧・兌臉弊觚澄法」
北朝鮮訪問。金日成主席と会談。
日中平和友好条約発効5周年記念式典に出席。日本側を代表し「日中友好条約に盛られた覇権主義反対を基礎に日中友好関係を発展させたい」と挨拶。李先念国家主席と会談。
アルジェリア革命30周年記念式典に参列。シャドリー大統領と会見。ヤラ内相ら首脳と会談。

『王震中日友好協会名誉会長を中央林間邸に迎え観桜会』(東京タイムス)
『明日では間に合わない、ここまできた核戦争の恐怖と現実(宇都宮徳馬・松山善三・桐島洋子出演、國弘正雄総司会)』(日本テレビ・ミノファーゲン製薬提供)
『座談会・北朝鮮開放政策へ何故大転換(宇都宮徳馬・小田実・石橋正嗣)』(週刊エコノミスト)
『暴兵損民』出版
昭和60年
(1985年)
中国。日本海、アジア平和の船(300人)総団長として訪中。胡耀邦総書記と会談。
中国。「世界平和のための北京フォーラム」に団長として参加。胡耀邦総書記、王震中日友好協会名誉会長、伍修権元参謀総長と会談。
「ソ連、第4回親善不戦の誓い、第1回レニングラードシンポジウム」訪ソ団顧問として参加。コワレンコ党中央委国際局次長、セナトロフ極東部長と会談。急遽モスクワにて、ウオロトニコフ政治局員、カビッツァ外務次官と夫々会談。
緊急シンポジウム「1%問題と軍縮を考える」。二十二人委と平和構想懇共催。

『なぜ「1%」を守るべきか、米ソ交渉と日本の選択』(世界)
『講演・核戦争の脅威と日本』(仏教タイムス)
『座談会・反戦、反核、戦後40周年に“なぜ軍拡に奔走するのか”(宇都宮徳馬・伊藤壮・國弘正雄)』(図書新聞)
『ポツダム宣言の条件 今こそ敗者の原点に戻れ』(朝日ジャーナル)
『ニュージーランド’85、核の冬、南半球から平和を考える(田英夫・ニュージーランドの人々・國弘正雄総司会)』(日本テレビ・ミノファーゲン製薬提供)
『座談会・旧志再会(赤城宗徳・石田博英・宇都宮徳馬・司会内田健三)』(世界)
昭和61年
(1986年)
第14回参議院議員選挙。当選。
NAHA(那覇)シンポジウム「国際平和年にあたり沖縄から平和を考える」二十二人委主催。
日中友好代表団団長として訪中。田園荘落成テープカット参列。清主席と会談。
東京、第1回「アジアの平和」日中懇談会を開催。

『「北方領土買い入れ論」の卓抜、四島返還論の不条理をただし宇都宮徳馬の覚醒の提言』(朝日ジャーナル)
『緑の日本列島に外国軍隊基地を増やすな』(軍縮問題資料)
『宇都宮徳馬さん、身銭切っても「軍縮」発行(朝日新聞)
昭和62年
(1987年)
「1%枠撤廃」をどう考えるか緊急シンポジウム。二十二人委主催。
北京、第2回「アジアの平和」日中懇談会に代表として参加。
北朝鮮、金日成主席と会談。
中国、日中国交回復15周年祝賀友好代表団総団長として訪中。
勲一等旭日大綬章受章。

『なぜ日米安保体制は危険か(聞き手:安江良介)』(世界)
昭和63年
(1988年) 
東京、第3回「アジアの平和」日中懇談会開催。
「核廃絶と世論の力」長崎平和シンポジウム開催(長崎市、二十二人委共催)
中国、日中合同桜蘭学術調査探検隊を激励、呉学謙副首相、王震会長、孫平化会長と夫々会談。
日中平和友好条約締結10周年記念式典に日中友好協会代表団団長として訪中。

『軍拡無用・二一世紀を若者に遺そう』出版
『ビキニング〜西から太陽が昇った(出演:宇都宮徳馬・本島長崎市長・レスターブラウン。総司会:國弘正雄)』(日本テレビ・ミノファーゲン製薬提供。テレビ放映通算5回)
平成元年
(1989年)
税金党平和の会結成、代表となる。
「非核三原則の立法化」シンポジウム開催。二十二委。
中国、北京大学より名誉法学博士学位授与。李鵬首相と会談。
長崎県被爆者手帳友の会第2回友の会平和賞受賞

『世界和平与裁軍』(軍拡無用、中国版)出版
『不幸な天皇だった、二つの決断老政治家の感懐』(東京新聞)
『勇気を持って過去の失敗に学べ』(新聞研究)
『宇都宮徳馬(82)年商ナント60億、ミノファーゲン製薬の社長サン』(週刊宝石)
『座談会・宇都宮徳馬を囲んで現下の政治を語る(石橋堪一、國弘正雄)』(自由思想)
『インタビュー・一一億人の隣人を思う』(世界)
平成2年
(1990年)
東京、第4回「アジアの平和」日中懇談会開催。
『軍縮問題資料』発刊10年を祝う会(発起人代表・鯨岡兵輔、田英夫、安江良介ら)。
日中友好協会訪中団名誉会長として訪中。
「日中医学交流中心」名誉会長に就任

『インタビュー・ひとりの勇気が世界を救う、我がアジア外交の原点(問う人:村上薫)』(政策)
『宇都宮徳馬さん「軍拡という言葉を葬りたかった」』(朝日新聞コラム)
『記者席・宇都宮徳馬議員満10歳の『軍縮』に感慨深く』(朝日新聞)
平成3年
(1991年)
「湾岸戦争の即時停戦を求める」緊急シンポジウム。二十二人委主催。
朝鮮民主主義人民共和国より親善勲章受章。
北京、第5回「アジアの平和」日中懇談会。
キューバ友好章受賞。
『軍縮問題資料』10年間の発行活動に対し日本ジャーナリスト会議(JCJ)より1991JCJ賞受賞。
中国人民対外友好協会より「人民友好の使者」称号授与。

中国版『宇都宮徳馬文集』出版
『平和憲法を世界の政治の原理に』(躍進)
平成4年
(1992年)
第6回「アジアの平和」日中懇談会開催。
日中友好協会全国本部名誉会長に就任。
参議院議員任期満了に伴い政界を退く。(国会議員在職40年)

『92年、日中国交正常化二〇周年を迎え、宇都宮会長の新年の挨拶』(日本と中国)
『引退する宇都宮徳馬氏「政治家は公約守れ」』(毎日新聞)
『議員活動40年、7月7日に任期満了となった宇都宮徳馬さんを囲んで歓談』(東京七島新聞)
平成5年
(1993年)
中日友好協会より「中日友好の使者」の称号授与。
北京、第7回「アジアの平和」日中懇談会(欠席)。

『風成の人「宇都宮徳馬の歳月」』出版(著者:坂本龍彦)
『宇都宮徳馬さんの月刊誌『軍縮』平和と護憲訴え150号』(朝日新聞)
平成6年
(1994年)
東京、第8回「アジアの平和」日中懇談会
核軍縮を求める二十二人委員会、10周年記念シンポジウム「いまこそ核のない世界を」と「日本の非核政策大丈夫か」(二十二人委主催)。
中国宋慶齢基金会、黄華主席一行来日。

『「出あいの風景」宇都宮先生。富野暉一郎』(朝日新聞)
平成9年
(1997年)
日本短波放送から「医学の焦点」提供放送に感謝状授与。
平成12年
(2000年)
7月1日肺炎のため逝去。93歳。
正三位叙位伝達。

 
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